刮目呂蒙のブログ

都内在住の30代男です。時事問題や生活改善情報から、自分の周りのことまで。たまに持病(潰瘍性大腸炎)のことも。

『麒麟がくる』が光秀と信長の友情物語には見えなかった私

こんにちは呂蒙です。今日も日記的な内容で。

f:id:katsumokuRyomou:20210208234326p:plain

 

麒麟がくる』最終回の再レビュー

麒麟がくる』最終回はすごい反響ですね。さすが本能寺の変

同作は光秀と信長の友情物語だったと脚本の池端先生が言っておられるとのこと。

なるほど、そう見るべきなんですね。作者だから一つの答えでしょう。

ただ、私は、あまり光秀と信長を友人関係だとは思っていませんでした。友人というより盟友といえばいいんでしょうか。そういう捉え方もあまりしていませんでした。

 私の人間性が歪んでいる

たぶん私の人間性が歪んでいるでしょうね。そういう関係性が苦手というか、特に思春期ころは、あまり友達をうまく作ることができなかったのです。なんとか友達ができるようになったのは大学以降でしたが、それもなんとか輪に入れてもらった感じで、今もそういう状態です。輪に入っているように見えても、なんとなくハブられているような感覚は今でもずっとあります。「友人」たちは内心私を迷惑に思っているのではないか…という。

私は早口なんですが、早口な人ってどこか、速く話さないと最後まで自分の話を聞いてもらえないような感覚があると思います。私なんかが時間をとらせてしまってすみませんというような。友人関係らしい関係でもそうです。お情けで輪に入れてもらっているので、役に立たないとその場にいられないような気がしている。だから役立つだろう情報を提供する。自分の話は余計でたぶん邪魔だろうので早口になって、早く終わらせなければいけない。だけど普段から話を聞いてもらえていないので、勢い長くなる。だから、余計早口になる。小さいころから、軽口の練習なんかしていません。もし自分がそういう態度を取ったら、バカにするなとなって、いよいよその輪から追い出される気がするのです。ですので、冗談などは全然上手になりませんでした。得意なのは自虐だけです。冗談が身についてないので、いま冗談を言おうとしても面白くなくて、変な空気になるし、なぜか他の人と言葉が被って、私のほうの話は誰も聞いていないということが多い気がするのです。その他の人の話がそのまま続く。そういう経験をしてきました。ところが、そういう経験って、結局自分を自意識過剰でうざいキャラとして作り上げるので、余計に友達ができません。そういうループに入ると、苦しいハードモード人生の一丁上がりです。

 「陰キャ」について

考えてみると、これって「陰キャ」の一種ですね。自分をそのまま受け入れてもらえない苦しみの原体験があるかないか。これが「陽キャ」と「陰キャ」の違いだと思います。容姿の良しあしは受け入れの可否を決しやすいので、区別の有力な基準の一つですが、ブサイクでも「陽キャ」はいますね。自分が当然受け入れてもらえるという態度を取れるブサイク。謎の自信で陽キャの中に平然といるブサイクは私にとっては不思議な存在です。たぶん、ブサイクが「陽キャ」になりやすい環境は、男子校・女子校でしょう。そこではブサイクにも不思議な自己肯定感がある気がします。共学は容姿の差がそのまま人気や人望の差になり、カーストを作り上げ、性格の明るさや歪みにそのまま比例しやすいと思います。私は共学だったのもあってずっと陰キャで、下手に成績が良かったので井の中の蛙として特異なプライドも出来上がってしまって、気が付いたら矯正の難しい性格になっていました。生来的に友達関係は苦手で、高校までの人間関係で「友達」は一人もいない寂しい状態です。大学の友達はいるにはいますが…書くと悲しくなってくるのでやめておきましょう。

 「普通の人」は怖い

一点だけ付け加えると、私は優しい人が好きです。言い換えれば、自分を受け入れてくれそうな。きみもそこに居ていいよって言ってくれる感じの人が好きですね。あるいは、本音(っぽいこと)をちゃんと言ってくれる人が好きです。人の悪口や愚痴を言う人が嫌いっていう人がいますが、私はそういう人間らしいところを見せてくれるのはすごく安心します。逆に、建前を繕うのが上手な人は苦手です。そういう人が「普通の人」だとは思うのですが、品行方正で面白くないという以上に、内心煙たがられているのではないかというこちらの不安が払拭できなくて怖いので。コンサルの人風に言うと、コミュニケーションコストが高いともいえますね。

 光秀と信長の「友情」?

ともかく、私には、『麒麟』の信長と光秀の間に友情は見えませんでした。友情を感じたという人は、上下関係なく友情をはぐくめるような、人付き合いの上手(普通?)な人なんだろうと思いました。

まず、光秀は信長を好きなようには見えませんでした。合理主義的な能力の高さを斎藤道三と共に一目置いていたのは間違いないでしょうが、仏罰を試してみるような即物的なところについていけない感覚を持ちつつ、麒麟を呼ぶために大きな国を作れるのは信長しかいないと思って付き従っていた感じかと思っていました。光秀も嘘を付けない直言居士のようなところがあり、そこが斎藤道三にも松永久秀にも合っていたし、斎藤義龍も美濃統一後しばらくしてからその価値に気づいたというところ、朝倉義景など合わない人には合わなかったわけです。そして、光秀のそういう性分は信長にも基本的には合っていたわけですが、光秀は信長の性格を読み取って上手に反応している部分もあるという印象でした。そして、自分が信長をうまく操縦できると思っていたフシもある。よく「私が信長様を説得いたします」って言ってましたからね。「優しいお方だと思っていました」、というのは絶対ウソだろと今でも思います。

信長のほうは、光秀のことが好きなんだろうと思っていましたが、合理的で承認欲求の高い信長にとって、褒めるところは褒めるし、建設的でベストな回答もする、欲しい答えをくれるのが帰蝶であり光秀であったという印象です。そういう人格の人にとってあまり友情というのは出てこないというか、欲しい答えをくれる人は「都合のいい人」ではあったと思います。その人から見た主観としては「友達」かもしれませんが、客観的にみたら歪んでいるので、そういう観点では見ていなかったですね。

 信長の笑顔って必然の流れなのか

ヤフコメなどでは、信長は十兵衛に攻められるのなら是非もなしとして、憑き物を落としてもらえてちょっと嬉しそうだったみたいな解釈がされていました。私もそこはまあそうかなと思ったのですが、あそこで信長が笑顔になってくれたり、穏やかな表情で丸まって死んだりする演出があったからこそ、そうなのかなと思えたというだけでして、「話の全体的な流れを考えると光秀に攻められた信長の反応はあれしかないよね」などとは全然思い至りませんでした。みなさんはどうお考えなんでしょうね。

 

文学は難しいけど自由

文学は私には大変難しいですね。ネットでは絶賛の多い松永久秀の死に方も、派手ではあったけど、あまりピンとこなかったところでして。斎藤高政(義龍)が道三を父と呼びたくないあたりの葛藤とかは、難易度が「やさしい」だったのか、私にも結構分かった気になって面白かったんですが。

光秀が死ぬ描写がなかったことも、私は不満しかなくて、「天海説を含ませた綺麗な終わり方」という評価は正直全然同意できません。光秀の首が京に晒されたところまでとは言わんから、ちゃんと秀吉に負けた現実を描いてくれよという気持ちが強かったですね。そういう現実を描かない創作で「史実の光秀のイメージが変わった」とか言われても全然ピンと来ないです。

しかし、文学は作者の手を離れたら、あとは受け手の自由に解釈してよいわけです。そこが文学の優しさだと思います。

たぶん私も、10年後にまた『麒麟がくる』を見たら感想が違っていることでしょう。人それぞれでいいと思います。その作品を見て何かが良くなっていればいい。いや、そういう考え方ですら功利主義的でダメかもしれません。要するに何でもいいんだと思います。おわり。